この続きになる。
『HHhH プラハ、1942年』(ローラン・ビネ著・高橋啓訳/ 創元文芸文庫)を読み終えた。
第二次世界大戦下のナチス・ドイツ。 親衛隊の高官であるラインハルト・ ハイドリヒは占領下チェコの統治を任される立場にあった。「金髪の野獣」の異名を持つハイドリヒは飴と鞭を上手に使い分け(決して褒めてはいない)チェコ人を締め上げていく。
『HHhH』はハイドリヒや、 彼を暗殺しようとするチェコ亡命政府の軍人である青年二人につい て、そしてハイドリヒ襲撃以降のナチスの報復を描く作品だ。 うーん、本当にざっくりなあらすじ!
長く続く本が読めない期に終止符を打つため選んだのだが、 何度か匙を投げかけた。
読むのに一か月近くかかっているのも、その間に「 今はちょっと気がのらん…」と読むのを止めているからだ。
読書感想文ではないが、 備忘録として思ったことを残しておこうと思った。
①「僕」
『HHhH』の主人公は暗殺計画の標的となるハイドリヒや、 ガプチークやベネシュの暗殺決行組だろう、読む前と思っていた。
読み始めてからすぐに出てくる「僕」の存在は、「まぁしばりょ( 司馬遼太郎)の「筆者はー」と同じもんだろ」 ぐらいだったのだが、この「僕」最後の最後まで出てくる。 めちゃくちゃ出てくる。途中から、これは「僕」 が主人公の作品なのかと納得させながら読んだ。
「僕はーーー思うのだ」と登場しながら、膨大な史料を元に、「 僕」は1942年5月27日、 ハイドリヒ襲撃の日に向かっていく。
私はこの「僕」を作者であるローラン・ ビネだと思って読んでいたのだが、解説を読むと、「僕」 はビネ氏ではないらしい。そんな、どういうこと!読解力のなさが悔しい。
②己の無知さ
ただ私、ズデーデン地方割譲もミュンヘン会談も、ベーメン・ メーレン保護領が何かも知らない状態だった。とりあえずラインハルト・ハイドリヒっていうナチの高官の存在と、映画「 ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦」 を見たというだけで『HHhH』を読もうとした。
ついでに最近テレビ映画『謀議』も見た。ケネス・ ブラナー演じるハイドリヒはハイドリヒっぽくないなぁなんてにわ かな知識ながら見ていた。
世界史の知識はほぼないので、 当たり前のように出てくる人物名にまず頭を抱え、 当時の欧州事情にも頭を抱えた。 知らない単語が出ると都度ネットの海を彷徨い、 wikiを読むだけじゃ流して終わりになってしまうからと抜粋し てノートに書き移す必要があった。
ベネシュもハーハも知らない、 チェコスロヴァキアが大戦前そんな大変なことになっていたなんて 知らなかった。言い訳じゃないが自称歴史好きというのは、 正確には日本の幕末~西南戦争あたりまでに限定されているのだ。
ノートにメモしていく中で感じる己の無知。 ただ相関図を書いてみたり、この人前メモった人だ! みたいな繋がりを感じたりというのは楽しい時間だった。 途中何度も「人間とはなぜこうも愚かなのか」と哲学みたいな問題にぶちあたっていたけれども。 自分の中の世界が少し広がった気がした。
③リディツェ村
ハイドリヒが撃たれた直後から、 ナチスは襲撃犯探しに躍起になる。 その中で犠牲となったのがリディツェ村の人々だ。村の人々と襲撃犯の2人には全く接点はないのだが、ヒトラーは見せしめに村そのものを地図上から消すという暴挙に出 る。男性はその場で射殺し、女性や子供は強制収容所へ連行。 村の建物は燃やしつくした。やることなすこと無茶苦茶である。
私は数年前から病むとナチスの人々をググる癖があるのだが、 以前それを母に話した時に怪訝な顔をされたことがある。 きっとナチの思想に傾倒しているのではと思われたのだろう。 だが、 占領下の国々で行われた残虐行為を知るたびにそんな気持ちは生ま れないし、むしろなんでこんなことをと吐き気を催すのだ。母、 安心してね。
ハイドリヒを知ったからこそ、リディツェ村のことを知れた。 作中で「自分たちのせいで」 と襲撃を決行したガプチークやクビシュが胸を痛めるシーンに私も 勝手に思いを馳せて悲しんだ。 どんな気持ちで地下の納骨堂にいたのだろう。 きっとベネ氏が描いているように苦しい思いでいっぱいだったんだ ろうな。
④結局なんなんだこの小説は
『HHhH』は世界中で大ヒットを重ねたらしい。 文庫本に収録されている訳者のあとがきも解説にもそのことは触れ られていて、手に入れる前に参考程度に見た口コミも絶賛だった。
私が「この本すごい!」とハマりきらなかったのは、 ベネ氏の几帳面すぎる性格が合わなかったからだろうか。 やっぱり、「ちょっと「僕」ですぎじゃない?」と思ってるし。
後半になるにつれ、 映画を見たこともあって情景を想像しながら読めたし、 そこはふがふがとページをめくる手が止まらなかった。
多分もう一度読めば(ある程度知識は入れたので) より楽しめるし、 ベネ氏のすごさも少しは理解できるのかもしれない。あと「僕」 の存在ももう少し解像度をあげれるかもだし。
あっ、そうだ。 ベネ氏は歴史小説を描く際に作者による創作を入れることを否定しているが、 司馬遼太郎で育ってきているからそこが相いれないのかもしれない と思ったりした。司馬さんの作品= すべて史実とするわけではないけれど、 創作がはいることでより楽しめてるし。
そんなこんなで久しぶりに本を一冊完走することが出来た。